西山 和良(にしやま かずよし、1933年8月25日 - )は、和歌山県伊都郡見好村(現・かつらぎ町)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
来歴・人物
県立和歌山商では3年次の1951年に中堅手として夏の甲子園に出場し、準決勝に進むが熊谷高のエース服部茂次にノーヒットノーランを喫する。
高校卒業後は1952年に関西大学へ進学し、中心打者として活躍。関西六大学リーグでは在学中2度の優勝を経験し、リーグ通算71試合出場、238打数66安打、打率.277、5本塁打を記録。大学の1年下に法元英明(中退)、平井嘉明がいる。
大学卒業後の1956年に大阪タイガースへ入団し、1年目の同年から外野手として30試合に先発したほか、代打での出場も多かった。1959年には左翼手の定位置を大津淳と争い、70試合に先発出場を果たすなど主に6番打者として活躍したが、1960年にマイク・ソロムコが入団し出場機会が減少。1962年7月12日の国鉄戦(後楽園)では、9回2死に石川緑の代打で打席に立ち、安打を放って村田元一の完全試合達成を阻止した。1964年の開幕直前、永田雅一会長の希望により、小山正明・ソロムコー山内一弘・若生智男のトレードの裏で東京オリオンズに金銭移籍。主に代打として起用されるが、1966年限りで現役を引退。
引退後は阪神の一軍打撃コーチ(1970年 - 1973年)→二軍打撃コーチ(1974年 - 1975年)、二軍監督(1976年, 1978年)・統括コーチ(1977年)を歴任。編成部長時代には、深沢恵雄ー福間納のトレードを取りまとめた。
1959年6月25日に行われた巨人対阪神戦(後楽園球場)は、日本プロ野球史上唯一の天覧試合である。決着は9回裏、巨人の長嶋茂雄が阪神の村山実から左翼ポール際に入るサヨナラ本塁打で巨人が勝利した。この一打については村山が生涯「あれはファウルだった」と言い続けたことで知られるが、これを選手として最も間近に見ていたのが途中交代からレフトの守備に入っていた西山だった。西山もサードを守っていた三宅秀史も特にアピールをしていなかったことからこの試合で阪神の先発投手としてマウンドに上がっていた小山正明は「あれはホームランだった」と述懐している。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 27 (1956年 - 1960年)
- 15 (1961年 - 1963年)
- 8 (1964年 - 1965年)
- 9 (1966年)
- 61 (1970年)
- 70 (1971年 - 1978年)
脚注
関連項目
- 和歌山県出身の人物一覧
- 関西大学の人物一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧



