石坂 昌孝(いしざか まさたか、1841年6月11日〈天保12年4月22日〉 - 1907年〈明治40年〉1月13日)は、日本の幕末から明治期の名主、政治家。神奈川県会議員、神奈川県会議長(初代)、群馬県知事(官選第5代)、衆議院議員(4期)。幼名・高之助。苗字は「石阪」とも表記され、文献によってぶれがある。
経歴
武蔵国多摩郡野津田村(のち鶴川村、現在の町田市域)で豪農・石阪吉恩の三男として生まれ、母の実家、名主・石阪昌吉の養子となる。安政4年10月(1857年11月)、家督を相続し、又次郎を襲名。
明治維新後、明治5年1月(1872年2月)、第三十戸籍区戸長となり、第八区区長、神奈川県権少属を歴任。1879年2月に神奈川県会議員となる。1880年7月、東京生糸商会を設立した。
自由民権運動に加わり、1881年11月、政治結社「融貫社」を結成し、青年を育成した。1882年7月、自由党に入党した。
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第三区から出馬し当選。以後、第4回総選挙まで連続4回の当選を果たした。
1896年8月、群馬県知事に就任。同年9月、渡良瀬川の大洪水が足尾鉱毒事件の端緒となった。1897年4月、知事を非職となる。
官歴等
- 1873年(明治6年)5月 - 第八區區長 任官
- 1874年(明治7年)
- 6月 - 神奈川県権少属 任官
- 12月 - 神奈川県権少属 免官
- 1879年(明治12年)2月 - 神奈川県会議員 当選・神奈川県会議長 選出
- 1881年(明治14年) - 神奈川県会議員 辞職
- 1890年(明治23年)7月1日 - 第1回衆議院議員総選挙(神奈川県小選挙区 神奈川3区)初当選
- 1892年(明治25年)2月15日 - 第2回衆議院議員総選挙(神奈川県小選挙区 神奈川3区)2期目当選
- 1894年(明治27年)
- 3月1日 - 第3回衆議院議員総選挙(東京府小選挙区 東京13区)3期目当選
- 9月1日 - 第4回衆議院議員総選挙(東京府小選挙区 東京13区)4期目当選
- 1896年(明治29年)8月12日 - 群馬県知事 任官
- 1897年(明治30年)4月7日 - 群馬県知事 非職
栄典
- 1896年(明治29年)9月21日 - 正五位
親族
- 娘:美那子 / ミナ(1865~1942) - 教育者。北村透谷の妻。透谷没後は米国に留学して英語学を修め、帰国後は英語教育に従事。
- 子:公歴(まさつぐ)(1868~1944) - 政治運動家。父・昌孝の逮捕後に渡米。在米日本人を「日本人愛国同盟会」として組織し日本政府を批判するなど政治運動に従事。第二次世界大戦中に日系人収容所で死去。
脚注
参考文献
- 篠田正作 編『明治新立志編』鍾美堂、1891年、97-98頁。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
- 村野常右衛門
- 胎中楠右衛門




